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2013年9月7日土曜日

ノーベル賞

オバマはノーベル平和賞を受賞した。

だから、シリアに制裁を加える。

ノーベル賞も賞金レースです。

選ぶのはスウェーデン王立アカデミー。

つまり、クラシックです。バビロンシステムの賞金レースです。


オバマ米大統領が12月10日オスロで行ったノーベル平和賞の受賞演説全文は以下の通り(日本語訳)
(英文はこちら)
 陛下、殿下、ノルウェー・ノーベル賞委員会の皆さま、米国と世界の皆さん。
 私はこの栄誉を、深い感謝とともに謹んでお受けする。この賞はわれわれの大いなる志―この世が残酷さと困難に満ちていても、われわれは単なる運命の囚人ではない、ということを物語る。われわれの行動は重要であり、歴史を正義の方向に向けることができる。
 (私にノーベル平和賞を授与するという)あなた方の寛大な判断が巻き起こした、大変な論争を見過ごすわけにはいかない。私が世界の舞台で仕事を終えたわけではなく、緒に就いたばかりであることも、その理由だろう。この賞を受けた歴史上の巨人たち―シュバイツァー(医師)や、キング(牧師)、マーシャル(元米国務長官)、そしてマンデラ(元南アフリカ大統領)―らと比べれば、私が成し遂げたことはわずかだ。そして世界には、正義を追い求めて投獄され、暴行を受けている男女が存在する。
 人々の苦痛を取り除くため人道団体で尽力している方々。勇気ある思いやりに満ちた行動で、最も冷笑的な相手をも鼓舞する何百万人もの名もなき人々。これらのあるいは著名な、あるいはほとんど無名の男女の方が、私よりもよほどこの栄誉にふさわしいという指摘に反論することはできない。
 私の受賞をめぐる最大の問題は、私が二つの戦争の最中にある国の軍最高司令官だという事実だろう。戦争の一つは終わりに近づいている。もう一つは米国が求めなかった戦争、さらなる攻撃から私たちとすべての国々を守るために、われわれがノルウェーを含む42カ国とともに戦う戦争だ。
 われわれは今でも戦争を遂行中だ。私は米国の数多くの若者を遠い地の戦闘に送り込むことに責任を負う立場にある。そのうち何人かは誰かを殺し、何人かは命を落とすだろう。私は、武力紛争による犠牲について鋭敏な感覚を持ってここに来た。戦争と平和の関係と、戦争を平和に置き換える努力についての難問を抱えている。
 これらの課題は新しいものではない。戦争はどのような形であれ、昔から人類とともにあった。その道義性が疑われたことはなかった。部族間の、そして文明間の力の追求と相違の解決手段として、干ばつや疫病のように現実にあるものだった。
 時を経て、集団間の暴力を規制する手段として法律が登場すると、哲学者、聖職者、政治家が戦争の破壊的な力を制御しようとし、そこで「大義のある戦争」という概念が登場した。それは、戦争は自己防衛の最終手段として、適正な武力により、可能な限り非戦闘員は犠牲にしないという条件に合致する場合のみ正当化されるというものであった。
 歴史上、「大義のある戦争」という概念はほとんど実現していない。人類が殺し合う方法を新たに考え出す能力を無尽蔵に有することは証明済みだ。そして外見の違う人々、異なった神を信仰する人々に対し無慈悲にその能力を行使した。
 軍隊間の戦争は国家間の戦争へと発展、全面戦争では、戦闘員と一般市民の区別が不鮮明なものになった。わずか30年の間にそのような殺りくが2度この大陸で行われた。第2次世界大戦は、第三帝国(ナチス・ドイツ)と枢軸国を打ち負かすというこの上ない大義があった。しかしこの戦争では、非戦闘員の死者数が兵士の死者数を上回ったのだ。
 このような破壊を受け、さらに核兵器時代の到来もあり、勝者にとっても敗者にとっても、あらたな世界戦争を予防する仕組みが必要なことが明確になった。だからこそ、ノーベル平和賞を受賞したウッドロー・ウィルソン元大統領が提唱した国際連盟を米上院が拒否してから四半世紀、米国は平和を守る構想を打ち立てる上で世界を主導した。マーシャルプラン、国際連合、戦争抑止メカニズム、人権擁護の条約、虐殺の予防、最も危険な武器の規制がそれだ。
 さまざまな方法で、こうした努力は成功を収めてきた。もちろん、恐るべき戦争は発生し、残虐行為も起きてきた。しかし、第3次大戦は発生していない。冷戦は、歓喜に沸く群衆が壁を破壊することで終結した。商業は世界の大部分をつなぎ合わせてきた。数十億人が貧困から脱した。自由、民族自決、平等、法の支配といった理想は、もたもたしながらも前進してきた。われわれは先人たちの不屈の精神と先見の明の継承者であり、これは米国が真に誇れる遺産である。
 21世紀に入り10年、古い構造は、新しい脅威により崩れつつある。世界はもはや二大核超大国間の戦争の脅威におびえることはないだろうが、核拡散は破滅への危険を増しているだろう。テロは古くから存在する戦術だが、現代のテクノロジーによって、激しい憎悪を抱く少数の人間が罪のない人々を大量に殺すことが可能になった。
 さらに、国家間の戦争は、次第に国内での戦争に取って代わられつつある。民族間や宗派間の衝突の激化、分離運動の増加、反政府勢力、破綻(はたん)国家は市民を終わりの見えない混沌(こんとん)に陥れている。現代の戦争では、兵士よりも市民により多くの犠牲が出ている。将来の衝突の種がつくられ、経済は破壊され、市民生活はずたずたにされ、難民は増え、子供に傷あとを残す。
 私は今日、戦争をめぐる問題の絶対的な解決策を携えてはいない。私が認識していることは、こうした難題に立ち向かうには同じ考え方、懸命の作業、数十年前に大胆に行動した男性、女性を含むすべての人たちの粘り強さが求められる。さらに、大義ある戦争の概念と平和の必要性について新思考が求められるだろう。
 われわれが生きている間に暴力的な紛争を根絶することはできないという厳しい真実を知ることから始めなければならない。国家が、単独または他国と協調した上で、武力行使が必要で道徳的にも正当化できると判断することがあるだろう。
 私はこの声明に、マーチン・ルーサー・キングが何年も前に、この同じ式典で述べた思いを込めたい。「暴力は決して永続的な平和をもたらさない。社会的な問題を何も解決せず、もっと複雑な問題を新たに作り出すだけである」。キングのライフワークを引き継ぎここに立つものとして、私は非暴力の道徳的な力を信じる証言者だ。ガンジーとキングの信条と人生において、弱々しく、消極的で、ナイーブなものは何もないことを私は知っている。
 しかし国民を守り保護することを誓った国家のトップとして、彼らの例だけに導かれるわけにはいかない。私は現実の世界に対峙(たいじ)し、米国民に向けられた脅威の前で手をこまねくわけにはいかない。誤解のないようにいえば、世界に悪は存在する。非暴力運動はヒトラーの軍隊を止められなかった。交渉では、アルカイダの指導者たちに武器を放棄させられない。時に武力が必要であるということは、皮肉ではない。人間の欠陥や理性の限界という歴史を認識することだ。
 私はこの点を提起したい。なぜなら今日、理由のいかんを問わず、多くの国で軍事力の行使に二つの相反する感情があるからだ。時として、そこには唯一の軍事超大国である米国への内省的な疑念が伴う。
 しかし、世界は思い出さなければならない。第2次大戦後の安定をもたらしたのは国際機関や条約、宣言だけではない。いかに過ちを犯したとしても、その国民の血と力で60年以上にわたり、世界の安全保障を支えてきたのは米国なのだ。われわれの男性、女性兵士らの献身と犠牲が、ドイツから韓国までに平和と繁栄をもたらし、バルカンに民主主義を打ち立てることを可能にしたのだ。われわれは自分たちの意思に従わせるために、この重荷を背負ったわけではない。自分たちの利益のために、そうしたのだ。子や孫たちのより良い未来のために、そうしたのだ。他の国の子供や孫たちが自由と繁栄の中で生きることができれば、彼らの生活もより良いものになると信じているのだ。
 そう、平和を維持する上で、戦争という手段にも果たす役割があるのだ。ただ、この事実は、いかに正当化されようとも戦争は確実に人間に悲劇をもたらすという、もう一つの事実とともに考えられなければならない。兵士の勇気と犠牲は栄光に満ち、祖国や大義、共に戦う仲間への献身の現れでもある。しかし、戦争自体は決して輝かしいものではない。決してそんなふうに持ち上げてはならない。
 両立させるのは不可能に見える二つの事実に折り合いをつけさせることも、私たちの課題なのだ。戦争は時として必要であり、人間としての感情の発露でもある。具体的には、かつてケネディ元大統領が訴えた課題に向け、私たちは努力しなければならない。彼は「人類の本性を急に変化させるのではなく、人間のつくる制度を少しずつ発展させた上で、実際的かつ達成可能な平和を目指そう」と語った。
 この発展とはどんなものだろう。実際的なステップとは何だろう。
 まず初めに、戦力行使について規定する基準を、強くても弱くてもすべての国々が厳守しなければならないと考える。ほかの国々の元首と同じように、自国を守るために必要であれば、私には一方的に行動する権利がある。しかしながら、基準を厳守する国々は強くなり、守らない国々は孤立し弱くなると確信している。
 米中枢同時テロの後、世界は米国のもとに集い、アフガニスタンでの私たちの取り組みを支援し続けている。無分別な攻撃を恐れ、自衛の原則を認識したからだ。同じように、(イラク大統領だった)サダム・フセインがクウェートに侵攻したとき、世界は彼と対決しなければならないことを悟った。それは世界の総意であり、正当な理由のない攻撃をすればどうなるか、万人に向けた明確なメッセージとなった。
 その上でだが、米国自身が規則を守らないのならば、他者に規則を守るよう迫ることはできない。規則を守らないのならば、いかに正当化しようとも、われわれの行動が独断的に映り、介入の正当性を損なうことになってしまうからだ。
 これは、軍事行動の目的が自衛の範囲を超え、一つの侵略者に対する一つの国の防衛という範囲を超える際、特に重要になる。われわれは、政府による自国市民の虐殺や、一つの地域全体を暴力と苦悩に巻き込みかねない内戦をどのように防ぐかという困難な問題に直面し、そうした機会は増え続けている。
 私は、バルカン諸国や、戦争に傷ついた他の地域でそうであったように、武力は人道的見地から正当化できると考えている。何もせずに手をこまねくことは良心の呵責(かしゃく)を生み、後により大きな犠牲を伴う介入が必要になる可能性がある。だからこそ、すべての責任ある国家は、平和維持において、明確な指令を受けた軍隊が果たし得る役割というものを認めなければならない。
 世界の安全保障における米国の責務が消えることは決してない。ただ、脅威の拡散が進み、任務もより複雑化した世界では、米国は一国だけでは行動できない。この事実はアフガニスタンに当てはまる。テロや海賊行為に、飢えや人々の苦悩も結び付いたソマリアのような破綻(はたん)国家においてもそうだ。悲しむべき事だが、そのような状態は、不安定化している地域では、今後何年にもわたって変わることはない。
 北大西洋条約機構(NATO)諸国の指導者や兵士たち、そして他の友好、同盟国は、アフガンでその能力と勇気をもってこれが事実であることを示してくれた。
 しかし、多くの国で、任に当たる者たちの努力と、一般市民の抱く相反する感情との断絶がある。私は、なぜ戦争が好まれないのか理解している。だが、同時に、平和を求める信条だけでは、平和を築き上げることはできないということも分かっている。平和には責任が不可欠だ。平和には犠牲が伴う。そうだからこそ、NATOが不可欠であるのだ。そうだからこそ、われわれは国連と地域の平和維持を強化しなければならない。いくつかの国だけにこの役割を委ねたままにしてはいけないのだ。
 だからこそ、われわれは国外での平和維持活動と訓練から、オスロとローマ、オタワとシドニー、ダッカやキガリへ、故郷へと戻った者たちをたたえるのだ。戦争を引き起こす者としてではなく、平和を請け負う者たちとしてたたえるのだ。 
 武力行使について最後に言っておきたい。戦争を始めるという難しい決定を下すのと同じように、われわれはいかにして戦うのかについても明確な考えを持たねばならない。ノーベル賞委員会は最初の平和賞を赤十字の創設者であり、ジュネーブ条約の推進役だったアンリ・デュナンに授与したことで、このことの意義を認めたのだ。
 武力が必要なところでは、一定の交戦規定に縛られることに道徳的、戦略的な意味を見いだす。規定に従わない悪意ある敵に直面しようとも、戦争を行う中で米国は(規定を守る)主唱者でなければならないと信じている。これがわれわれが戦っている者たちと異なる点だ。われわれの強さの源泉なのだ。だから、私は拷問を禁止にした。グアンタナモの収容所を閉鎖するよう命じた。そして、このために米国がジュネーブ条約を順守するとの約束を再確認したのだ。われわれが戦ってまで守ろうとする、こうした理念で妥協してしまうと、自分自身を見失うことになる。平穏なときでなく困難なときこそ、ジュネーブ条約を守ることでこうした理念に対し敬意を払おう。
 われわれが戦争を行うことを選択するとき、心に重くのしかかる問題について私は言及してきた。しかし、そうした悲劇的な選択を避けるための努力についてもう一度立ち戻り、公正で永続的な平和を構築する上で必要な三つの方策を説明しよう。
 まず最初に、規則や法を破る国と立ち向かう際に、態度を改めさせるのに十分なほどに強い、暴力に代わる選択肢を持たなければならないと私は信じている。なぜなら、永続的な平和を望むなら、国際社会の言葉は何らかの意味を持たなければならないからだ。規則を破るような政治体制には責任を負わせねばならない。制裁は実質的な効果がなければならない。非協力的な態度には圧力を強めなければならない。そうした圧力は世界が一つになって立ち上がったときにのみ、成り立つのだ。
 核兵器の拡散を阻止し、核兵器のない世界を追求する取り組みが急務だ。前世紀の中ごろ、各国は(核拡散防止)条約(NPT)に従うことで同意した。その取り決めは明確だ。すべての国が原子力を平和利用でき、核兵器を持たない国は所有を断念する。核兵器を持つ国は軍縮に向けてまい進する。私は積極的にこの条約を支持してきた。条約は私の外交政策の要だ。そして私はメドベージェフ大統領と一緒に、米国とロシアの核備蓄を減らす作業を行っている。
 また、イランや北朝鮮のような国が核不拡散体制を悪用しないよう主張することもわれわれの義務だ。国際法に敬意を払う者は、法がないがしろにされたら目を背けることはできない。自分の安全保障を心配する者は、中東や東アジアでの軍拡競争の危険性を無視することはできない。平和を追求する者は、核戦争のため各国が武装するのを何もせず傍観してはならないのだ。
  同様の原則は国際法に違反し、自国の人々をむごたらしく扱う国々にも適用される。ダルフール(スーダン)の大虐殺やコンゴ(旧ザイール)での組織的強姦(ごうかん)、ミャンマーの弾圧、これらは責任が問われなければならない。そう(国際社会の)関与はあるだろう。そう、外交努力があるだろう。だが、これらが失敗した場合には、(こうした国々の)責任が問われなければならない。われわれが結束すればするほど、武力介入するか(何もせず)抑圧の共謀者となるか、われわれは選択を迫られなくなるであろう。
 これは第2の点につながる。われわれが求める平和の本質についてだ。平和は目に見える紛争状態がないということだけではない。すべての人々が生まれながらに持つ人権と尊厳に基づく平和だけが、真に永続することができる。
 第2次大戦後、世界人権宣言の起草者を後押ししたのはこの洞察だ。荒廃の最中、彼らは人権が守られなければ、平和は空虚な約束にすぎないと認識したのだ。
 しかし、こうした言葉が無視されることはあまりにも多い。人権は西洋の原理だとか、地域の文化に合わないとか、国家の発展の一段階にあるので守れないなどと間違った考えで言い訳する国もある。米国では長い間、自らを現実主義者と称する人と、理想主義者と称する人の間で緊張関係が続いてきた。狭量な利益の追求か、自らの価値観を押しつける果てしない運動か、明確な選択をするよう提案してきた。
 私は、こうした選択を拒む。市民が自由に話したり、好きなように礼拝したり、指導者を選んだり、何の恐れもなく集会を開いたりする権利を否定されるところでは、安定した平和は得られないと信じる。不平がたまって膿(うみ)になり、部族や宗教のアイデンティティーに対する抑圧は、暴力につながり得る。われわれは、その反対も真実だと知っている。欧州が自由になった時、やっと平和が訪れた。米国は民主主義に対する戦争はしていない。われわれの最大の親友は、市民の権利を守る政府だ。どんなに冷ややかな見方をしても、人類の思いを否定することは、米国の利益にも、世界の利益にもならない。
 米国はさまざまな国の独特の文化や伝統に敬意を払いながらも、常に人類共通の思いの代弁者になる。(ミャンマーの民主化運動指導者)アウン・サン・スー・チーさんのような改革者の静かなる威厳の証人となる。暴力にさらされながらも票を投じる勇敢なジンバブエ人や、イランの通りを静かに(デモ)行進した数十万の人々の証人となる。このことは、これらの政府の指導者は、ほかの国家の力よりも、国民の思いを恐れているということを物語っている。希望と歴史はこうした運動の味方になるとはっきりと示すことが、すべての自由な人々と自由な国家の責任だ。
 これも言わせてほしい。人権は、言葉で熱心に説くだけでは促進できない。時には、労を惜しまない外交と連携させなければならない。抑圧的な政権に関与すると、義憤を持った純粋なままの状態でいられなくなることは分かる。しかし、相手に手を差し伸べずに制裁を科したり、議論の余地なく非難するだけでは、現状は悪いまま進む可能性があることも分かる。抑圧的な政権は、開かれた扉という選択肢がなければ、新たな道を進めない。
 文化大革命のおぞましさを考えれば、ニクソン(元米大統領)が毛沢東(中国主席)と会談したことは許し難いと思われた。だが中国が多くの市民を貧困から解放し、開かれた社会とのつながりを持つ道筋をとる助けとなったことも確かだ。
 ローマ法王ヨハネ・パウロ2世のポーランドとのかかわりは、カトリック教会だけでなく、ワレサ(元大統領)のような労働運動の指導者にも活動の場をつくった。レーガン(元米大統領)が軍縮に向けて努力し(ソ連の)ペレストロイカを受け入れたことは、ソ連との関係を改善しただけでなく、東欧全体の反体制派に力を与えた。
 単純な公式はない。孤立させることと関与すること、圧力をかけることと励ますこと、両者の間のバランスを取るよう、最善を尽くさなければならない。そのようにして人権と尊厳は徐々に向上するのだ。
 第3に、市民の権利や政治的な権利があるだけでは公正な平和とはいえない。経済的な安定と機会が保障されなければならない。なぜなら真の平和は恐怖からだけではなく、貧困からの解放でもあるからだ。
 これは疑いようがないが、安全がなければ発展が根付くことはほとんどない。また、生きるのに必要な十分な食料やきれいな水、薬や住居が手に入らなければ安全は保障されないのも真実だ。きちんとした教育を受けたり、家族を支える仕事を得たりするという子供たちの望みがかなえられないところに安全はない。希望がなければ、社会は内側から腐りかねない。
 それゆえ、人々に食料をもたらす農家や、子供たちを教育したり病人を世話したりする国々を支援することは、単なる慈善事業ではない。このことはまた世界が団結して気候変動に立ち向かわなければならない理由でもある。もしわれわれが何もしなければ、長年にわたる紛争の原因となる干ばつや飢餓、人々の大量移動をさらに引き起こすことになるというのは科学的にほとんど争いのない事実だ。
 このため、即座に力強い行動をとることを求めているのは科学者や環境活動家だけではない。わが国や他の国の軍幹部らも共通の安全保障が不安定な状態にあるということを理解している。
 国家間の合意。強力な制度。人権の保護。開発への投資。これらすべてが、ケネディ大統領が言及した進化をもたらすのに極めて重要な要素だ。しかし、われわれがこの作業を完遂するための意志、持続力を持つためには、何かが足りない。それは、道徳的想像力の継続的拡大、すなわち、全人類が共有し、減ずることができない何かがあるという強い主張だ。
 世界がだんだん小さくなるにつれて、われわれがいかに似通っているかを認識し、基本的に同じものを望んでいると理解し、自分自身や家族がある程度の幸福感や充足感を持って人生を全うする機会を望んでいると理解することは、人類にとってだんだん容易になるだろうと、皆さんは思うかもしれない。
 しかし、それでも、目まいがするほどのスピードでのグローバル化、現代の文化的平準化の中でも、人々が、とても大事にしている自分ら特有のアイデンティティー、すなわち人種、部族、そして恐らく最も力強いものであろう宗教といったものの喪失を恐れることは、驚くに値しない。
 いくつかの場所では、この恐怖が紛争に発展した。時には、自分たちは逆行しているのではないかと感じることもある。こうした状況は、中東でアラブ人とユダヤ人が強硬になったように見える時や、部族同士が離反した国家においてみられる。
 最も危険なのは、偉大な宗教であるイスラム教を歪曲(わいきょく)し、汚し、アフガニスタンからわが国を攻撃した者によって、宗教が罪なき者の殺害を正当化するために利用されるそのやり方だ。これらの過激主義者は、神の名において殺人を犯した最初の人間ではない。十字軍による残虐行為は詳細に記録されている。
 しかし、こうした者たちは、われわれに、いかなる聖戦も正しい戦争とはなり得ないことを思い出させる。もし、心から神聖な意志を実行していると信じるなら、抑制する必要などないだろう。妊娠している母親や医療関係者、赤十字職員、さらに自らと同じ信仰を持つ人の命を容赦する理由などないはずだ。
 そうしたねじ曲がった宗教の考え方は、平和の概念と両立しないだけでなく、信仰の目的とも矛盾する。なぜなら、すべての主要な宗教の中心にあるただ一つのルールは、自分たちにしてほしいと思うことを他人にも行う、ということだからだ。
 こうした慈愛の法則に従うことは、常に人間としての努力やあがきの核心を占めてきた。われわれは誤りに陥りがちであり、間違いも犯す。自尊心や権力、そして時には悪がもたらす誘惑の犠牲ともなる。どんなに素晴らしい意図を抱いていても、時に自分たちの誤りを直すことに失敗することがある。
 しかし人類の状態を完成させることが可能であると、信じるためにも、人間性が完全であると考える必要はない。また世界をより良くする理想に近づくために、理想化された世界に住む必要はない。(インド独立の父)ガンジーや(米公民権運動の黒人指導者)キング師らの人々が実践した非暴力主義は、いかなる場合でも現実的で可能性を秘めていたわけではない。しかし彼らが唱えた愛、そして人類の進歩にかけた彼らの信念は、どんな時もわれわれの旅を導く北極星でなければならない。
 なぜならもしわれわれがその信念を失い、ばかばかしい、甘いと言って退けたり、戦争や平和に関する決定を下す際に無視したりするなら、人間性の最も優れた部分、可能性にかけたわれわれの思い、そして倫理的な指針を喪失することになってしまうだろう。
 キング師は何年も前にこの場で次のように語った。「私はあいまいな歴史への最終回答として絶望を受け入れることを拒否する。私はまた、人間が現在『そうである』性質が、永遠の課題である『そうであるべき』姿に近づくことを不可能にしているとの考えにはくみしない」
 だから、あるべき世界に到達するよう努力しよう。われわれの心の中をかき立てる神聖な輝きの世界へと。今日、世界のどこかには、戦闘で不利になりながらも毅然と平和を守る兵士がおり、残虐な政府に対し勇気をもって行進を続ける女性がおり、極貧にあえぎながらも子供に教える時間を取り、この残酷な世界でも子供の夢が実現する余地がどこかにあると信じる母親がいる。
 こうした手本を見ならおう。この世界に抑圧はいつも存在することを認めながらも正義に向かって進むこともできる。腐敗が手に負えないことを認めながらも尊厳を追求し、戦争がこれからもあると知りつつも、平和への努力を続けることができる。われわれにはそれが可能だ。なぜならそれこそが人間の進歩の物語であり、全世界の希望であり、この困難な時代にあってわれわれが地上で果たすべき仕事であるからだ。(共同)
  

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