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2012年12月26日水曜日

丹羽さんへ


丹羽さんへ

石原さんの暴言は見過ごすことができない。

だが、石原さんは東京都民の多くに支持されている(先進国の都民としてはレベルが低すぎて情けない)。

民主主義の国です。言論の自由はある。

だからこそ、野田さんは、尖閣を国有化した。

領土問題に、ひとつの決着を付けた。

つまり、「決める政治」です。

国民は、「決める政治」に驚いて、怯えた。それが、自民党の大勝に繋がっただけ。

日本は、どんどん、どんどん、遅れていて、おいてけぼりになるだけ・・・

「石原さんは、地方政府のトップでした。知事が国益にかかわる発言や行動をしたとき、どうして一国の首相が『君、黙りなさい。これは中央政府の仕事だ』と言えなかったのか。そういう声をたくさん聞きました。ほかの知事たちも東京と同じような行動をとろうとしたら、日本の統治体制はどうなるのか。世界の信を失いかねない深刻な問題です」


2012年12月21日金曜日
丹羽元中国大使の意見

正論です。安倍さん、どうするの?


■石原氏の尖閣発言 なぜ首相は止めぬ
  ――在任は2年4カ月でした。
 「民主党と共に始まり、民主党と共に終わった。そして、尖閣に始まり、尖閣に終わりました」
 【6月、丹羽大使が英紙の取材に対し、当時の石原慎太郎・東京都知事が打ち出していた尖閣諸島の購入計画について「仮に石原知事が言うようなことをやろうとすれば、日中関係は重大な危機に遭遇するだろう」と発言し、批判された】
 「石原さんは、地方政府のトップでした。知事が国益にかかわる発言や行動をしたとき、どうして一国の首相が『君、黙りなさい。これは中央政府の仕事だ』と言えなかったのか。そういう声をたくさん聞きました。ほかの知事たちも東京と同じような行動をとろうとしたら、日本の統治体制はどうなるのか。世界の信を失いかねない深刻な問題です」
 「尖閣諸島は日本の領土。一寸たりとも譲歩は許されない。ただ、東京都による計画には、桟橋を造るとか、あれをやって、これもやって、とあった。そうなれば、重大な危機になりますよ、と。私の発言の真意は、そこにありました」
 ――丹羽さんの発言が報じられたとき、北京に駐在して中国の空気に接している私は、違和感を覚えませんでした。英紙の取材には、日本大使館の幹部も同席していました。
 「外交は現場感覚を尊重し、大事にしたほうがいいですね」
 ――しかし、野田政権は丹羽さんを「注意」して事態を収拾しようとした。私は他国の外交官から、政府がみずからの大使を支持も擁護もせず、公然と批判するのを見たことがないと指摘されました。
 「私が謝ることで収まるなら、結構じゃないですか」
 ――いや、結構ではなくて、日本政府が尖閣諸島を国有化した後、日中関係は危機に直面しました。
 【野田首相が9月9日に中国の胡錦濤(フーチンタオ)国家主席とウラジオストクで話をした翌日の閣僚会合で国有化に合意し、その翌日に閣議決定。柳条湖事件が起きた同18日には、約100都市で反日デモが発生した】
 「いまさら、あと出しじゃんけんのように結論が出たあとで、だから言ったじゃないですか、あのときはこうすれば良かった、などと言うことは、私の美学に反します」
 ――2010年9月の漁船衝突事件でも、民主党政権は船長を逮捕するなど強気の姿勢をとりながら、処分保留で釈放した。深夜に中国外務省に呼び出され、応じた丹羽さんも日本で批判されました。
 「言い訳は一切しません。それに何があったのか、いまここで話すには生々しすぎます」
 「離任を前に大使としての所感を書きました。そこで強調したのは、5W1Hが大切だということです。ビジネスも外交も同じ。時期は適切か。やろうとしていることは正しいか。その判断が重要なのです」
 「(尖閣諸島の領有権をめぐっては)外交上の係争があるのだから、それについては認め、中国と話をせざるを得ないでしょう。だからといって相手の領土だと認めることにはなりません。日中両国は、戦略的互恵関係の構築で合意しました。そのために何をすべきか。オプションはいくつもあります。海難救助、漁業協定、資源開発。どういう分野で協力しあえるのかを考えるべきです。自国の利益にかなうからこそ、他国との協調がありうるのです」
■日本嫌い 裏返せば嫉妬や尊敬の念
 ――日中国交正常化40周年が、終わろうとしています。
 「40年間の努力が水泡に帰すことがあってはいけない。どれだけの政治家が苦労して正常化を実現したか。先人の努力を無にする権限が誰にありますか。習近平(シーチンピン)さん、野田佳彦さん、そして安倍晋三さん、両国の首脳には、あなたがたの責任は国民を幸せにすることで、ときには耐え難きを耐え、冷静沈着に外交を行うことが必要ですと申し上げたい」
 ――日中両国の政治家にも市民にも、過激な論調が目立ちます。
 「肩ひじを張って外交をするというのは、自信の喪失や劣等感の表れです。日本は中国に経済力も軍事力も劣っているのではないか、と。劣等感を抱く必要はありません。私は商社マンとして40年近く、中国にかかわってきました。大使として33ある一級行政区のうち27カ所を訪問しました。百聞は一見にしかず。物事には裏表があって、日本人を嫌っている中国人には、日本人は素晴らしい、日本の商品は素晴らしいという嫉妬、裏を返せば尊敬の念がある。一部の中国人が感情を爆発させたからといって、こちらまで感情を爆発させる必要はありません」
 【北京を離れる直前の11月末の記者会見で丹羽大使は、日本に力を借りなくても中国はやっていける、という中国国内の声を「傲慢(ごうまん)」と批判した】
 ――私には意外だったのですが、中国のネット世論は炎上せず、むしろ丹羽さんに賛同する声が数多く書き込まれました。
 「炎上したら反論しようと思っていました。だって事実ですから。いまの中国の経済に、そんな力はありません。列車は脱線するし、橋は崩落するし。労働者の教育。あるいはソフトウエア。中国の経済には、まだ未熟な部分も、日本から学ぶべきことも、たくさんあります」
 「最近、中国では日本を批判するときに『ファシズム』という言葉が使われます。私は中国に聞きたい。ファシズムの意味を知っていますか、と。国家を優先し、個人の自由を抑圧する。これが全体主義です。あまり声高に言うと、中国内のネット世論がどう反応するか。軽々しく発した言葉が、ブーメランのように返ってきます」
 ――着任前から、日中関係は難しい、「汚れ役」になるのは覚悟のうえだと話していました。なぜ、中国大使を引き受けたのですか。
 「心を揺さぶられたからです。企業で仕事をしてきた私の考え方は、国のため、社会のため、人々のために働きなさいというものです。自社の利益だけを追い求めることは、長い目で見たら会社の発展に結びつきません。確固とした利益、会社のブランドは、そうして築かれる。国のために余命を尽くすことは、自分の哲学にも合っている」
 ――きれいすぎませんか。
 「きれいごとに聞こえるかも知れません。私も若いころは、自分の利益や業績。そんなものです。それが課長になれば課員のこと、役員になれば会社のこと、社長になれば政府の仕事など、責任を負う範囲が広くなる。経済財政諮問会議や地方分権改革推進委員会で政府の仕事を何年もしてきたので、外交も、官僚がどういう種族かも、だいたいの見当はついていましたからね」
■現場の声 国益のため生かせ
 ――主要国の大使ポストを明け渡した外務省は「初の民間出身の中国大使」を支えましたか。
 「日本大使館は、じつによく支えてくれました。ただ、官僚は言われたことは企業の社員よりずっと立派にしますが、言われたことだけ。私は大使館内に改革委員会を作った。若手の館員たちに、どうしたらもっと仕事がしやすくなるか、自分で考えなさいと命じました」
 ――改革は実現しましたか。
 「これまで中国各地にある日本総領事館は、東京を向いていた。本省が人事評価を行っていたからです。それでは日本大使館が中国全体の動きを把握できない。官房長の了承を得て、大使館が各総領事の人事の一次評価をすることにしました。総領事の皆さんには、北京に集まってもらい、酒を飲み、腹を割って話をする機会も設けました。忙しければ、昼間の会議は出なくてもいいからと。本省が主催する会議は紋切り型の文面を読むだけ。それではだめです。その効果があって、反日デモが中国各地で発生したときは、大使館と総領事館の間で膨大な情報を瞬時に共有できました」
 ――心残り、提言は。
 「いま、日中間では青少年交流まで止まってしまっている。中国共産党の新指導部で政治局員に就いた方々と話すと、青少年交流には賛成なんです。ただ、すぐには難しいという。青少年の交流こそが、氷を解かして両国の国民感情を改善させる契機になると確信しています」
 「私は政治主導に大賛成です。ただ、これは政治家にとって難しい。官僚以上に勉強しなければならないからです。官僚は優秀です。国家の財産です。彼らをいじめても政治は良くならない。官僚をいかに使うか。大使といえども官僚です。限界がある。官僚には言えないことも私は言えたが、後任は官僚出身です。新政権には、現場の声をすくい上げ、国益のために生かして下さいと、心よりお願いしたい」
    ◇
 民主党政権は、独自色を打ち出そうとして中国大使に任命した丹羽さんを、生かせなかった。それどころか、最後は尖閣諸島をめぐる対中強硬論に迎合し、交代させた。商社マンとして培った現場主義も、草の根交流への熱意も一貫していた。離任の朝、見送った大使公邸の中国人職員の責任者が男泣きしたという話を大使館員から聞いた。(坂尻信義)
    ◇
■にわ・ういちろう 39年生まれ。伊藤忠商事で食料畑を歩み、社長、会長、相談役を歴任。著書に「人は仕事で磨かれる」「新・ニッポン開国論」など。

http://digital.asahi.com/articles/TKY201212200826.html?ref=comkiji_txt_end_s_kjid_TKY201212200826

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